※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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近江屋事件がなかったら、その後の歴史は変わっていたのだろうか。私は大きな流れには違いはなかった思う。
殿様なら個人が決定的な決め手になる。たとえば、山内容堂公や島津久光公が別のタイプの人なら、幕末維新史は非常に違うものになっていただろう。こうした立場の方がこうと決めたら、大多数の人が違う考えでも歴史は動いてしまう。
だが、家臣たちの場合は、多くの協力者がいなければ大きな仕事はできないし、誰かがいなくとも代わりがいるのである。
薩長同盟にしても、私が立ち会わなかったら、中岡慎太郎がその役を引き受けていただけかも知れない。
ともかく、王政復古は、私の死んだあとわずか三週間余りのちのことである。近江屋事件の三日前には長州軍先鋒が、二日前には薩摩の大軍勢がすでに上京のために進発し、一一月二三日に薩摩軍が入京。二九日には長州軍が西宮に上陸している。
この動きを私が止められたものでもないし、阻止しようとも思わなかっただろう。それに近江屋事件がなかったら、中岡も生きていただろうから、土佐はより倒幕路線に傾いていただろう。
そして、王政復古は、突然のだまし討ちでなく、慶喜公自身にも容堂公にも予告されたものであった。もし、慶喜公がこれを阻止できたとしたら、すでに書いたような、抜本的な新政体案を自らのイニシアティブで出した場合である。
その慶喜公にとっての抵抗勢力は、会津や幕府内の頑迷な保守派であった。たとえば、会津や新撰組を武装解除するとか京都から出て行かせれば慶喜公は、しかるべきイニシアティブをとれただろう。だが、それが慶喜公の力ではできなかったのだ。
そこで、もし私が生きていたら会津や新撰組を説得して京都を退去させるとか、慶喜公が御三家並みの大名になる提案をするようをお助けできたのかと言えば、そんなことは無理な相談だ。
戊辰戦争のときでも、勝海舟先生と西郷隆盛のあいだにあって使者くらいは勤めることができたかもしれないが、たとえば、会津と薩摩の仲介をするなど手がかりとなる人脈もなかった。
会津にとって私はまさに天敵だったのだからどうして、私の意見に耳を傾けると言うことがあるだろうか。
勝先生ですら、近藤勇に甲州で戦えば領地がもらえるかもしれないなどとうまくいいくるめて江戸から追い出したが、会津相手に私がだまして何かやれるはずもないだろう。
私が生きてたら会津にいいことがあったなどありえないのである。
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