龍馬の幕末日記98:明治まで生きたら龍馬はなにをしていただろうか

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

坂本龍馬 Wikipediaより

もし、私があと1か月生きていたとすれば、まちがいなく、王政復古に協力していただろうし、函館戦争で榎本武揚がフランス人と籠城したりしたことをもっとも激烈に非難する立場にまわっただろう。

彼らのようなものこそ、私が「日本を洗濯したく申し候」と腹を立てた外国勢力と結び日本を分裂させる姦吏そのものだ。

それでは、仮に王政復古後まで生きていたら、新政府でどのような役割についたのか。

これについて、西郷隆盛のところに持って行った人事案に私の名がなかったので、「坂本さんの名がどうしてない」、「私は役人には向いてない。土佐にはほかにも人材はたくさんいる」、「政府の外で内をするつもりか」、「さよう。世界の海援隊でもやらんかな」などという会話をしたという人もいる。

よく似たやりとりはなくもなかったが、人事などというものは、全体のバランスもあるし、出身母体の意向もある。各藩を代表するような重役が並べば私の出る幕はないし、出身を問わず実務家が出るのなら私の名があってもおかしくない。

土佐の事情でいえば、私が脱走を許された郷士というままでは、土佐を代表して出て行くのは難しかった。後藤象二郎は、容堂公から大政奉還の大仕事とをなした功績で馬廻役から1500石取りの中老に格上げになった。私も上士待遇になり、それを踏まえて新政府でそれなりの要職を占めるということはあり得ただろう。

ただ、のちに、乾(板垣)退助が回顧したように、私は役所勤めをして毎日精勤するといったことには向いていないし、難しい文書を書いたり法令を組み立てたりする能力もない。そういう仕事は、乾もいったように中岡の方が向いていただろう。

むしろ、乾がいったように岩崎弥太郎や五代友厚のように実業界に進出するというのもあったかもしれない。実務にはそれほど強いとは思えないが、資金を集めたりするのは得意だ。

あるいは、北海道開拓使長官あたりにははまり役だっただろうし、海軍を創設するときにしかるべき役割があったかもしれない。

残念至極だったのは、世界をこの目で見る機会がなかったことで、岩倉使節団などにはぜひとも参加したかったものだ。

そして、その後、西郷隆盛が下野するとか、西南戦争を起こすといったことを、自分の力でなんとか止めてやれなかったかというのがもっとも悔やまれるところだ。

とくに、もし小松帯刀と私が生きていたら、西郷の悲劇はなかったはずだ。

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