龍馬の幕末日記:番外篇(1)松平容保とその子孫

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、近著『最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値』(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。(過去記事リンクは文末にあります)

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愛読頂きました「龍馬の幕末日」は、昨日で100回を迎えました。このあと、今度の週末まで、番外編・総集編として終わりにしたいと思います。まず、3回は、龍馬にとって不倶戴天の敵だった会津藩のその後です。これは、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』(晋友社新書)からの抜粋です。なかなか出来の良い本と思いますので、是非、新書のほうも読んで頂けると幸いです。

会津武士にとって輝かしい光の部分は、明治になって驚くほど多くの優れた人材が出ていることだ。

「幼年より学校に於いて文武の教えを受け、老臣より軽卒に至るまでみな伯仲の才があるが、思想偏狭にして各自が功を貪るので一致して行動できない」と幕府の医師で戊辰戦争のとき城内にいた松本良順が会津藩士について書き残している。

妥協を嫌い唯我独尊の者が集まると組織がうまく動かないし、それが会津の悲劇をもたらしたのだが、明治になって個人個人で活躍の場を求めると、ある種、日本人離れした強みを発揮していったのである。

松平容保は、鳥取、和歌山、斗南に預けられたあと赦免されて日光東照宮の宮司となった。幕末から戊辰戦争までの出来事についてほとんど語らなかったが、禁門の変の際に孝明天皇より賜った宸翰を竹筒に入れて身につけていたといわれ、そのことも、人々の同情心をかきたてることとなった。

この沈黙が、たとえば、回顧談で自分の行動を正当化した德川慶喜などに比べて日本人に好感を与える理由になっているが、過去について語らないことを尊ぶという習慣が好ましいことだと、私自身は思わない。

はたして、容保がすぐれた人物あったかといえば、そうは思わないが、その子や孫には優れた人材が輩出しており、本人も少なくとも知的には高水準だったのでないかと推察される。

容保は長く実子がなく德川慶喜の弟である喜徳を養子として最後の藩主としたが、明治二年になって長男・容大が生まれ、斗南藩として再興したときの藩主となった。ただ、のちに学習院を素行不良で退学させられた。

爵位は子爵だが、これは、斗南三万石が爵位の基準になったことになったことによる。戊辰戦争の結果、いくつかの藩が減封になったが、それが爵位に影響したものとしては、仙台藩主の伊達家が侯爵になるべき所を伯爵になったのと、伯爵のはずの会津松平家が子爵になったこと、そして、上総請西藩の林家が唯一改易扱いとされ、当初は爵位をもらえなかったのがのちに本来の子爵でなく男爵とされた三例である。

居場所のなくなった喜徳のほうは、水戸藩分家の陸奥守山藩を継いだ。

容大は跡継ぎがなかったので、容保の七男の保男が継いだ。海軍少将で姪の松平勢津子が秩父宮妃となるに際しては養女として送り出した。

容保の次男である健雄は、伊佐須美神社の宮司だったが、その子の勇雄は福島県知事になった。五男の英夫は山田伯爵家(初代は長州藩出身の山田顕義)の婿養子となり伯爵となり貴族院議員も勤めた。

六男の恒雄は、外交官となり鍋島信子と結婚。信子は大正天皇の貞明皇后の側近として宮中で絶大な勢威を誇り、娘の勢津子が秩父宮妃となる。

この結婚について会津との和解という説明がされることが多いが、むしろ、信子の娘であることが理由というべきだろう。

信子の姉は梨本宮伊都子で、その娘が大韓帝国最後の皇太子の妃となった李方子。信子、伊都子、勢津子は美智子皇后の結婚の際に反対運動をしたことでも知られるが、これも、美智子皇后の外祖父は佐賀藩陪臣の出身であるから、鍋島家としての立場でないか。

また、勢津子の結婚を渋る恒雄の説得に当たったのは、「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」という「蛮勇演説」で知られる樺山資紀・海軍大臣の子で勢津子の友人だった白州正子の父・愛輔だった。

恒雄は戦後に参議院議長となり、その子の一郎は東京銀行会長。その妻が德川宗家第一七代家正の娘である豊子で、二人の間の子である恒孝が第一八代を継いでいる。第一六代の家達夫人は近衛家、家正夫人は島津家であるので、将軍家のほか近衛、島津、鍋島の血を引いていることになる。

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