龍馬の幕末日記:番外篇(4)秋篠宮妃殿下の曾祖父は大阪市長

八幡 和郎

皇室と会津というと秩父宮妃殿下が有名だが、秋篠宮妃殿下紀子さまの曾祖父である池上四郎も会津藩士だ。つまり、悠仁さまが将来に於いて即位されると、会津藩士の血を引く天皇誕生と言うことになると地元では期待している。

秋篠宮妃殿下 Wikipediaより

川嶋家は紀州の出身だが、紀子さまの曾祖父である庄一郎は、東京高等師範を出て、学習院教授兼初等学科長などをつとめ、その長男の孝彦は、東京帝国大学から内務省に入り。最後は内閣統計局長だった。その夫人が内務官僚で大正の終わりから昭和の初めに大阪市長や朝鮮総督府政務総監を歴任した池上四郎の娘だった。池上家は高遠で保科家に仕えていたが、会津移封とともに移り250石どりだった。

兄の三郎が司法省の幹部だったつてで警官となり、大阪府の警部長として辣腕をふるい、大正2年にはじめての名誉職的でない大阪市長に迎えられ、3期10年間つとめた。

兄の三郎は、維新後酒田県の大参事(副知事)となっていた庄内藩元家老の松平親懐らが、税金の金納が可能なことを農民に下達せず、米納させて現金化し、その利鞘を流用していた「ワッパ騒動」の摘発で名を上げて、神戸地方裁判所検事正、函館控訴院検事長などを歴任した。会津と庄内というかつての同盟者の隠されたエピソードだ。

明治13年(1880)~昭和25年(1950)

会津藩首脳でありながら、新政府でも守成したのが手代木直右衞門勝任。京都守護職時代の会津藩公用人として新撰組の創設などにも関わり、その弟は坂本龍馬を暗殺した主犯の佐佐木只三郎。。

若松開城にあたっては秋月悌次郎とともに米沢藩へ降伏交渉の使者をつとめた。赦免ののちは、新政府に出仕し左院少議生、香川県・高知県の権参事を歴任したのち岡山区長を務め、明治36年の死去に先立って近江屋事件の顛末について遺言した。さほど出世しなかったのは、復職の段階で五〇歳ほどになっていたという年齢がゆえであろう。

龍馬暗殺の関係者でありながら高知県権参事をつとめたというところが明治という時代の面白いところだ。

初代最高裁長官だった三淵忠彦の父は、会津藩家老で若松城開城のあと切腹した萱野権兵衛の実弟。父が早くに亡くなったので苦学して京都帝国大学を卒業して裁判官となり、大審院判事、東京控訴院上席部長となったが退官して三井信託の法律顧問などをつとめる。

昭和22年(1947)に新憲法のもとで設けられた最高裁判所の初代長官に就任した。この人事は、片山哲首相と親しかったこともあったが、当時、裁判官の任命を主導した裁判官任命諮問委員会の委員長は松平恒夫参議院議長であり、この異例な抜擢には松平容保の子として萱野権兵衛の甥に罪滅ぼししたと取られかねず、やや不公正な情実人事の臭いがする。

なお、最高裁長官としての三淵は、昭和天皇の退位を勧めるような立場をマスコミに出したことで話題となり、天皇側近の入江相政の日記には国民審査で三淵に×を付けたという記事が出ている。

このほか著名人としては、以下のような名も忘れられない。秋月悌次郎は、150石の丸山家の出身だが別家を立てた。広沢安任と同じように日新館から昌平黌で学び、舎長を務めたほどだった。京都では八月一八日の政変を薩摩藩とまとめた最大功労者だったが、身分不相応の仕事ぶりが藩内の反発を買い帰国させられたのみならず蝦夷地に左遷されたことはすでに書いたとおり。晩年は熊本の第五高等学校の教授となってラフカディオ・カーンと親交を深めたことで知られる。

ソニーの井深大と伊東正義

戦後に活躍した人では、ソニー創業者の井深大の家が二〇〇石取りの中級武士だった。本家は1000石の家老だが、これは分家である。祖父の弟が白虎隊で自決した石山虎之助だ。

祖父の基は北海道で熊本藩出身で西南戦争では西郷軍に従ったこともある深野一三(内務部長兼殖民部長)に見出され、彼が愛知県知事になったときに誘われて愛知県の商工課長、碧海郡長などを歴任した。いまでいえば部長クラスだ。

このあたりの来歴については、井深自身が日本経済新聞社の私の履歴書にいろいろ書いているが必ずしも正確ではない。

長州に差別されたので出世できなかったといわれているが、本当にそうなのかどうかは誰も分からないが、古河鉱業の技術者だった父を早くに亡くして、祖父の家で育てられた時期があるので、会津武士の精神をたたき込まれたと言うが、日本女子大卒の母はこれに反発して教師となったり、再婚したりしたので、井深は両方の家を行ったり来たりしている。

大平内閣の官房長官や鈴木内閣の外務大臣をつとめた伊東正義も会津藩士の出身。本家は日新館の教授をしていた。「最後の会津武士」といわれたように、清廉、頑固で河野一郎が大臣だったときにも自説を譲らなかったという。

農林官僚だったが、大平正芳の若いころからの盟友として知られた。誠に畏敬すべき政治家で、総理への就任を打診されたときに、「自民党の表紙だけを変えてもダメだ」といったことで知られる。ただし、あまりもの頑固さは総理に向いていたかどうかは別だ。一国の指導者は国民のために節を曲げなければならないこともある。

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、近著『最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値』(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。

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