龍馬の幕末日記:番外篇(2)会津武士のその後

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、近著『最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値』(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。(過去記事リンクは文末にあります)

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明治政府のもとで最初に大きな成功を収めたのは、山川浩・健次郎・捨松の3兄弟だ。山川家は高遠以来の家臣だが、300石取りで中堅クラスだった。それが祖父の重英が勘定奉行などをつとめて家老クラスに抜擢されていた。

浩は慶応2年(1866)10月に幕府外国奉行の小出大和守の随行員として樺太国境交渉などのためいロシア、フランスなどに派遣され、帰国したのは大政奉還の直前だった。戊辰戦争では日光口で奮戦し官軍の谷干城に注目される。

斗南への移転につき主導権を発揮し事実上の責任者である大参事に就任するが、ここでの仕事はあまり見通しがよいものだったとはいえまい。

このころ、弟の浩は秋月悌次郎が知人の長州・奥平謙輔に預けられており、妹の捨松は斗南から箱舘に送られてフランス人家庭にあった。北海道開拓使の黒田清隆は、アメリカに留学生を送ろうとしていたが、反政府軍関係者からも選ぶこととし、健次郎と捨松をメンバーに加えた。その経緯の詳細は分からないが、浩も当然に運動したのだろう。

廃藩置県後になって浩は、谷干城の勧めで陸軍にはいることとなり、西南戦争の熊本城攻防戦で大活躍した。「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が提げ佩く太刀の利(と)きか鈍きか」というのが出陣に際して詠んだ歌だが、この戦争で会津藩士は薩摩を懲らしめるときばかりに大活躍したが、警視庁の抜刀隊の一員だった猛将・佐川官兵衛などを戦死させている。

そののち、陸軍少将となるが、政界を志し、会津から総選挙に立候補するも落選。しかし、貴族院議員となり、谷干城の子分として行動する。

白虎隊の隊員だった健次郎はエール大学で学位を取り、物理学者として名をなすとともに、東大、京大、九大などの総長として抜群の行政手腕を発揮した。『京都守護職始末』や『会津戊辰戦史』などが成立したのには、健次郎の力に拠るところが大きい。

若松城籠城戦では八歳だったにもかかわらず負傷者の手当てなどに当たっていた捨松は、浩の妻が砲弾に当たって落命する悲劇に遭っている、アメリカではヴァッサー大学を優秀な成績で卒業し、看護学も学んだ。

帰国すると陸軍卿で西郷隆盛の従兄弟である大山巌から山川浩のもとに結婚の申し込みが行われた。なにしろ巌は若松城攻撃の砲兵隊長だったから、浩は断ったが、最後は本人同士の話し合いで縁談が成立した。大山もジュネーブに留学しており、結婚の案内状はフランス語で出されたという。

そののち、鹿鳴館の花といわれ、留学仲間の津田梅子が津田塾大学を開校することを助けた。前妻と大山の娘が結核にかかり戻されてきたときには、離れを建てて隔離したが、これが非情であると徳富蘆花から小説で非難され苦しんだこともあった。ちなみに、この徳富蘆花は新島八重ともトラブルを起こしている。

陸海軍で栄達した会津藩士

陸軍では柴五郎が陸軍大将となった。高遠以来の家臣で200石。戊辰戦争の時は八歳だったので、郊外に避難していたが、城下の屋敷では母と妹が自害した。

長兄太一郎は京都公用方で働き、斗南で公金横領事件に巻き込まれ下獄したが、のちに、青森県下北郡長、さらに、会津に帰って大沼郡長や南会津郡長をつとめた。

同じく兄の四郎は、アメリカに留学してペンシルバニア大学やパシフィック・ビジネス・カレッジで政治学・経済学を学び、政治小説「佳人之奇遇」を東海散士のペンネームで発表。明治25年には、第2回総選挙で会津で立候補して当選し八期を勤め大隈・板垣連立内閣の農商務次官などを勤めた。原敬暗殺の黒幕とも言われる。

そして、五郎は山川浩の書生などを経て陸軍幼年学校、陸軍士官学校に進んた。福州、北京、ロンドンなどに派遣されたのち、北京駐在武官であった明治33年に「義和団の乱」に遭遇し、「北京の五五日」を最大兵力を持つ日本軍の司令官として乗りきり、「籠城中にあって日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた」と称賛され、日本が文明国として認知されることに大きな貢献をした。その後、駐英武官などを経て台湾軍司令官、陸軍大将となった。太平洋戦争には反対したが、敗戦後に自殺未遂ののちその傷が明かして死去した。

さて、山川浩や柴五郎の昇進に山縣有朋が会津であるがゆえに反対したというエピソードが小説などにはあるが、少なくとも会津出身者が酷く差別されたなどと言うことは全くない。

たとえば、山川浩が少将になったころは皇族を別にすると陸軍大将はいないし、中将も山縣のほかいずれも薩摩の大山巌と野津道貫くらいで、山川と同じ少将には桂太郎や川上操六が前年になったばかりである。このころの少将というのは数が少なかったから、のちの大将より希少価値があったはずで、だからこそ、浩は男爵にまでなっているのである。このようにみれば、山川が冷遇されなどありえない。

あるいは、陸軍大学第一期生で大将となったのは、佐幕派の松山藩の秋山好古と沼津藩の井口省吾であって、盛岡藩出身の東条英教が佐幕派だったがゆえに大将になれなかったと英機に言い聞かせたのは息子に嘘ついただけだ。それがゆえに英機が反長州閥で陸軍内をひっかきまわしたのだから罪づくりな息子への虚言であった。

そして、陸軍士官学校第七期である柴五郎と同期では、津藩の島川文八郎と佐賀藩の宇都宮太郎(代議士だった宇都宮徳馬野の父)が大将となっているが、津藩は鳥羽伏見の戦いの途中から官軍に転じた中間派だし、さらに、この二人より早く柴は大将に昇任して同期の出世頭だったのであるから、これも人事上の不利益を受けていたというのはおかしい。官僚でも山縣の懐刀である平田東助は米沢藩出身であるし、後藤新平も仙台藩である。維新直後において薩長出身などで幕末維新の変革に貢献があった者がそれなりに遇されたのは勲功に報いる意味で当然であるが、逆に、戊辰戦争で官軍にいなかったから道が閉ざされていたということは、以上のようにまったくないのである。

海軍大将となった出羽重遠はいちおう殿様にお目通り可能だが、9石2人扶持というから14石くらいで足軽より少し上なだけだ。本国も不明でらいれきははっきりしない。このために日新館には入れてももらえなかった。

戊辰戦争のときは12歳で籠城戦では弾丸の運搬役だった。ただ、父親も頭が良かったのか「御用所書物掛」という仕事をしており、容保公の世話係となって東京へ出たので重遠少年も東京で勉強できることになり、やがて、海軍兵学寮に入ることが出来た。

海軍では薩摩の東郷平八郎や山本権兵衛に可愛がられてとんとん拍子に出世し、日本海開戦時は「笠置」を旗艦とする第三戦隊司令官で海軍中将。さらにその功績で第四艦隊司令官になった。この時に演習で下北半島の大湊港に寄港した。あの斗南藩庁があった田名部と隣接する港町である。

そこには、養女になってこの地に残っていた妹も住んでおり、この地になお残っていた会津藩士たち感激の対面を果たしている。

この出羽重遠についていえば、彼の身分では会津藩がそのまま続いていたら藩の中でも今日的にいえば、良くても課長補佐クラスがやっとだっただろう。なにしろ藩校である日新館にすら入れてもらえなかった少年が、明治維新になるや明治五年に海軍兵学寮に迎えられたのだから、維新こそが彼のために輝かしい道を開いたという以外ないではないか。

軍人では映画「バルトの楽園」で知られる第一次世界大戦中にドイツ人捕虜を収容した板東俘虜収容所の所長・松江豊寿もいる。捕虜を大事に扱ったことが、会津の悲劇と重ね併せるストーリーが人気を得る。陸軍少将で退役し、若松市長となったが議会と紛糾し任期を全うせずに辞職した。

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