龍馬の幕末日記100:坂本龍馬を有名にした司馬遼太郎ともう一人の立役者

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、近著『最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値』(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。(過去記事リンクは文末にあります)

幕末という本人が生きた時代には、それほどの有名人でもなかった坂本龍馬であるが、それを、全国民的なヒーローに仕立て上げた最大功労者は、宮内大臣をつとめた田中光顕という人である。

田中は佐川(司牡丹という清酒はここの酒)に本拠を構えていた家老深尾氏家臣の家に生まれ、土佐勤王党に参加した。吉田東洋を暗殺した那須信吾は叔父に当たる。

坂本龍馬らと同じ時期に脱藩し、高杉晋作を頼って長州に入り込み、明治になってからも長州閥の一角を占めた。

薩長同盟の結成に動き、中岡慎太郎の陸援隊幹部となった。慶応3年に中岡が坂本とともに暗殺された時は、現場に駆けつけている。

明治になって宮内大臣となったが、日露戦争のときに、昭憲皇后が「夢枕に現れた37、8歳の武士が帝国海軍の守護を誓った」と語られた。

その時に、さっそく、龍馬の写真をお見せしてこの人物に違いないと誘導したらしい。これが、国民的英雄としての坂本龍馬が誕生した瞬間である。

この田中光顕は、師と仰ぐ高杉晋作についても、遺作を寄せ集め自分お名前を読み込むなど改変までして「東行遺稿」を刊行し、高杉晋作ブームの立役者となっている。

故人を偉人として売り出すことについて、独特の才能があった変わった才能がある人物である。

桂浜にある坂本龍馬の銅像も、田中が早稲田大学の学生らの募金運動を助け、秩父宮殿下からの下賜金を斡旋して建立を実現したものだ。だいたい、おそらく龍馬は桂浜にいったことないのではないか。

とはいっても、龍馬が幕末維新の英傑の中で、第1の人気と言うほどではなかったことはいうまでもない。

それが、1962年から産経新聞に連載された「竜馬が行く」(司馬遼太郎)は、大人気を博し、それ以来、日本人にもっとも愛されるキャラクターになった。

世間でいわれているほどの重要人物かどうかは怪しいし、むしろ、現実的な判断で妥協を導くのが得意で、余り革新的な発想の持ち主ではないと思う。

だが、剣豪でありながらいちども人を斬らなかったといわれることや(ピストルでは幕吏を射殺しているが)、天真爛漫なところや独特の優しさがる。

そして、「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という手紙の中にある名句や「船中八策」に代表される文章は素晴らしい。土佐の人は、日本人の中でも異彩を放ち「いごっそう」といわれるが、それを代表するキャラクターであることは間違いない。

 

(参考)近著「最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値」(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。

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坂本龍馬は会津が暗殺したことで謎はない

幕府は各藩に実行には移さない前提で攘夷決行を命令したら、長州は本当に関門海峡を通る外国船に砲撃しました。

公家たちは若手中心の攘夷派と、現実派に分かれました。攘夷派は天皇を押し立てて、神武陵や伊勢神宮に親征し攘夷せざるを得ないようにしようとしますが、天皇はいやになって、佐幕派の公家や会津、薩摩と図って、「8月18日の政変」を起こして長州藩や攘夷派公家を追放します(1863年)。

神奈川では、久光の行列を横切ろうとしたイギリス人を薩摩藩士が殺した報復として、イギリス海軍が鹿児島を攻撃する薩英戦争があり、薩摩はかなり善戦しました。

京都ではテロの応酬になりました。会津藩も志士たちの取り締まりは危険なので、新撰組まかせです。池田屋事件は、府警(所司代)の応援に来た福島県警(会津)がヤクザ(新撰組)を雇って、令状なしで踏み込み逮捕もせずに切り捨てたという構図です。それに、会津や新撰組は金払いが悪いのも嫌われて世論の支持は圧倒的に尊王攘夷派でした。

長州は朝廷への復帰と会津の排除を求めて軍事行動に出ます。「禁門の変」です(1864年)。慶喜や薩摩は中立を模索しますが、孝明天皇の希望で会津の側に立ち、長州軍は打ち払われ、久坂玄瑞らは戦死しました。

下関にイギリスなど4国艦隊が来襲しましたが、和平交渉では、高杉晋作と英国留学を切り上げて帰国した伊藤博文が大活躍し、幕府の命令で攘夷を実行したのだから賠償責任は幕府にあると認めさせました。つまり、幕府のいい加減な態度が国際法的にも通用しないことが公認されたわけです。長州藩は戦いには負けたが外交で勝ったのです。

怒った幕府は長州征伐を命令しますが、遠征軍を実質的に仕切った薩摩の西郷隆盛は、3家老の切腹など緩やかな条件で和平し撤兵してしまいます。

しかも、長州では高杉晋作や木戸孝允が政権を掌握したので、幕府は第2次征長を計画し将軍家茂みずから出陣します。

この戦いに先立ち薩長盟約が成立し、長州は最新兵器を手に入れ、身分にとれわれない奇兵隊の活躍や、領民の協力もあって圧倒的な勝利を収めます。

敗戦の色が濃くなる中で、家茂は大坂城で病死。慶喜が新将軍になりますが、孝明天皇まで崩御し、慶喜は大政奉還を申し出ました。ただ、急なことで、朝廷では準備ができず、とりあえず幕府にそのまま政務が委任されました(1867年10月)。

そののち、慶喜がどのような形で新政府に参加するか、幕府領を新政府と徳川家でどう分けるかが模索されましたが、このとき、慶喜周辺の融和派への工作をしたのが土佐の坂本龍馬らでした。

しかし、政権居座りを図る会津藩によって坂本龍馬は暗殺されます(11月)。実行犯は会津藩出身で幕臣となった佐々木只三郎ですが、命令は会津上層部から出ていたとのちに容保側近の佐々木の兄が証言しており、謎は存在しません。

そして、薩摩や長州の兵が上洛してきたところをみはからって、小御所会議が開かれ、摂関制と幕府を廃止して新政府を樹立することと、徳川家の辞官納地(官職辞任と領地全面召し上げ)が決まります。これが「王政復古」です(慶応3年12月、1868年1月)。

慶喜はとりあえず大坂に引きあげ、外交団に引き続き日本政府を自分が代表していると宣言し、越前や尾張が調停に乗り出すのですが、薩摩の挑発にのった会津など強硬派が挙兵して上洛し、鳥羽伏見の戦いで敗れました。このとき、南北朝以来はじめて『錦の御旗』が登場し、絶大な効果を発揮しました。

逆賊になるのが嫌な慶喜は、主戦派の会津藩主らを拉致して江戸に戻ると謹慎し、官軍が東上すると江戸城は無血開城されました。江戸城にあった強硬派は東北や北海道に逃れ、そこで抵抗したので、戊辰戦争が起きましたが官軍の勝利に終わりました。会津などでも民衆がむしろ官軍に協力的だったのが致命的でした。これを見た官軍司令官の板垣退助が四民平等にしないと日本を守れないと確信したのが自由民権運動の原点です。



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