龍馬の幕末日記:番外篇(3)日韓併合の立役者や福島事件での三島通庸の協力者も

八幡 和郎

日韓併合は1910年のことであるが、実質的に大韓帝国が日本の保護下に入ったのは、ボーツマス条約を受けて調印された第二次日韓協約、韓国で「乙巳勒約」と呼ばれる条約だ。

この条約で韓国は外交の自主性を奪われ、統監を置くことを承認させられた。さらに、

協約の無効を主張する高宗の親書をたずさえた密使が万国平和会議に派遣されたが列強から相手にされなかった「ハーグ密使事件」によって高宗は退位させられ、日韓併合へ向けての布石となった。

この条約の推進役となったのが、駐韓公使だった林権助で、のちにその功績で男爵となった。2010年にソウル中区芸場洞旧朝鮮統監官邸跡にある銅像(消滅)の台座が損傷された事件が話題になった。

林の祖父はやはり同じ権助という通称を持つ会津藩士・林安定である。本国は出羽であるから最上旧臣だから鳥居家を経由して採用されたのだろうか。もとは300石だが幕末には500石になっていた。

槍の名手で失脚した水野忠邦の屋敷が民衆に襲撃されたときに出動して暴徒を追い払ったことで名を上げた。そののち、砲術に興味を持ち、山本覚馬らとその導入につとめた、大砲隊長として八・一八政変や禁門の変の立役者となった。

鳥羽・伏見戦で奮戦したが、負傷し江戸への船中で死去し、その子の又三郎も戦死した。残された母は幼少の権助を連れて東京で活路を求めて運動したところ、薩摩の陸軍少佐である児玉実文がかつてともに戦ったことの縁で養育を引き受け、大学予備門から東京帝国大学を経て、外務省に入省。1898年の戊戌政変のときには、梁啓超を日本へ亡命させるなど活躍した。

日韓併合の功労者として名を成し、その後、駐清公使、駐伊大使、駐英大使をつとめ、また、秩父宮殿下の英国留学の世話係をつとめた。日韓併合後ののちは、朝鮮半島や満州における利権保護のためには、中国に対しても公正な態度で臨むべきだという立場を取り、英米派として軍部に抵抗したという。枢密顧問官として昭和天皇の信任も厚かった。

福島事件で民権派弾圧にまわった蒲生旧臣

会津藩士で、官僚として成功した者も少なくない。日下義雄の父は農家出身だが勉学して名医と評判を取り、会津藩の侍医となった石田龍玄。義雄の弟は飯盛山で集団自決した石田和助。義雄は日新館で学び、戊辰戦争では大鳥圭介らと会津を脱出し箱館戦争に加わった。

長州の井上馨に取り入って明治四年の岩倉欧米使節団に加わり、アメリカ、イギリスに留学して経済学を研究。内務省などに勤務し1886年(明治19年に長崎県令(在任中に知事に名称改称)、ついでとなった。1892年(明治25年)8月20日に福島県知事となった。

そののち、1899年(明治32年)には、渋沢栄一などの協力で岩越鉄道株式会社を設立して郡山と会津若松間を開通させた。また、代議士を二期つとめた。

この日下が長崎県知事時代に取り立てて長崎市長としたのが、鳥羽伏見の戦いののちに詰め腹を切らされて自刃(勝海舟らは藩士による暗殺としている)させられた神保修理の弟で、筆頭家老・北原家を継いだ北原雅長である。

明治6年(1873)に工部省に勤務し、長崎県少書記官・対馬島島司・初代長崎市長となって水道建設を進めて功績とされる。東京市下谷区長を最後に引退したのち、明治37年(1904)『七年史』を上梓し、孝明帝から賜った御宸翰などについて公表した。資料的な価値の評価は高くないが、会津復権のための事業としては嚆矢だとされている。

町野主水の先祖は近江の名門で、蒲生氏郷の家老で白河城主だった町野繁仍はその一族。繁仍は第二章で紹介した蒲生家の内紛で失脚したが、その曾孫が德川家光の則しつつで長女を生んだお振ともいう。保科正之が山形城主となったときに採用され、幕末には150石。

戊辰戦争では三国峠の戦いなどで活躍。米沢藩への降伏勧告受諾の使者となった。その後、若松城下で戦後処理にかかわったことはすでに紹介したとおりだが、斗南には移らずに若松に留まり、会津帝政党を設立、福島県令の三島通庸が三方道路建設を進めて、民権派を襲撃した清水屋事件を引き起こしてそれが福島事件につながった。

三島通庸 Wikipediaより

なお、福島事件における民権派のリーダーで、のちに衆議院議長になる河野広中は、三春藩の郷士で、戊辰戦争では官軍のために会津攻撃の手引きをつとめたが、薩長への協力者と反対派がいつの間にか逆転したというわけだ。

主水の子が陸軍大佐で張作霖の顧問として知られる町野武馬。代議士も一期つとめた。

斗南に残った人々の中での有名人は、広沢安任だ。石高は六石五斗二人扶持だから12石ほど。お目通りではあるが足軽同様の待遇で出自もよく分からない。享保年間の採用で、使用人などで有名だったので取り立てられたのかもしれない。

日新館から安政四年に昌平黌へ留学できたのは幕末ならではである。戊辰戦争では江戸で囚われていたが、斗南藩で少参事に抜擢され、廃藩置県後の処置について、八戸県(藩主は南部家分家だが島津家からの養子)大参事太田広城と、旧知の大久保利通と交渉した。

大久保から新政府への仕官を勧められたが、斗南藩領地に隣接する三沢で酪農地開発にかけて、政府から援助を引き出し、外国人を雇いモデル事業として成功を収め、地域の功労者として尊敬を集めている。

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、近著『最強の日本史100 世界史に燦然と輝く日本の価値』(扶桑社文庫)から龍馬関係分を抜き書きしておきます。(過去記事リンクは文末にあります)

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