龍馬の幕末日記:総集編(1)龍馬暗殺は松平容保の命令

八幡 和郎

『龍馬の幕末日記』も明日を以て、最終回になるが、最後の2回は総集編である。今回は『龍馬暗殺の真相」とし、明日は、世の中で龍馬についてされている様々な誤解などの真実について主だったことを説明し、いずれも、あらためて、この連載を読み返すよすがにしてもらいたいと思っている。

なお、このところ、コロナ問題については、一昨日から「なぜ日本のワクチン接種は遅れているのか?」というシリーズをニュース・クランチで連載しており、月曜日からは夕刊フジで連載を始める。

龍馬暗殺事件の背景は何か

京都守護職をつとめていた会津藩松平容保の命令で、会津藩と実質その指令下にあった幕府の一部の武士が組織的に行ったものであることが、多数の関係者の自身の自白で判明しており、謎もなにもない。

坂本龍馬 Wikipwdiaより

もともと、土佐勤王党のメンバーであり、長州と密接な関係を持つ龍馬は倒幕派である。文久二年の政変で松平春嶽が幕閣入りしたころに知己を得て、勝海舟の私設秘書のような形になったが、禁門の変の余波で勝海舟が失脚し、失業したところを海軍についての知識があることと長州に顔が利くことが評価されて、薩摩の保護のもとで政商というかフィクサー稼業を始めた。これが亀山社中である。

そして、政治工作の一環として薩摩に依頼されたエージェントとして長州との橋渡しをした。龍馬は薩摩に雇われた人間として行動したのである。

ところが薩長同盟が結ばれたら用済みになって十分な援助が望めなくなったが、ちょうどそのころ、勤王派との関係修復に乗り出した山内容堂・後藤象二郎に迎えられて土佐の第三セクター海援隊に模様替えできた。

そして、越前の支持の下に徳川慶喜を会津藩など佐幕強硬派から切り離す政治工作に従事し、それを成功させたのが大政奉還である。このとき、成功しなければ、すぐに倒幕決行という準備をしており、倒幕派でなかった後藤象二郎とは呉越同舟だった。

大政奉還が決まったあとも、慶喜を会津と切り離して新政府に参加させようと努力を続け、慶喜側近の永井尚志と意思疎通に成功したが、これを阻止しようとして、松平容保(あるいは弟で京都所司代の松平定敬)が、会津藩の京都公用人(渉外責任者)の手代木直右衛門に龍馬の殺害を指示した。

手代木は弟で旗本の養子になり、京都で幕府の正式の特殊警察部隊のひとつとなっていた見廻組の佐々木只三郎に暗殺実行を命じ成功したというだけだ。佐々木は清河八郎の暗殺も手がけたプロの仕事人だ。永井や慶喜には秘密にしたうえでの犯行だ。

犯行は手際よく行われたので見廻組であることも公にはならず、むしろ、新撰組が怪しまれ、鳥羽伏見の戦いで佐々木らは戦死した。そののちも、新撰組の犯行と信じられたのは、新撰組から陸援隊へのスパイが摘発された事件発覚もあって、新撰組と信じてしまったのも背景にあった。(この時期はほかにもさまざまな陰謀論がながれていた)

しかし、五稜郭の戦いののちに捕らえられた新撰組隊員たちが見廻組の犯行と内部で周知されていたと自白し、見廻組に属し、実行犯の一人である今井信郎も認め詳細な供述をしたので一件落着した。

ただし、土佐藩幹部だった谷干城らは最初の見込みと違ったこともあってなお疑義を呈したりもしていたが、明治政府高官となっていた手代木が、明治37年の死に際して遺言で上記の経緯について述べており、謎が介在する余地はない。(手代木に命令した某諸侯については、松平容保と見るのが妥当だ。しかし、手代木の遺族が出版した伝記には定敬とある。ただし、佐々木只三郎の遺族はこれを松平容保だとしている。これだけが疑問点である)

松平容保 Wikipediaより

倒幕一辺倒の中岡慎太郎などに比べて、龍馬が慶喜の佐幕派からの切り離しも画策していたが、龍馬の葬儀、追悼などは、薩摩、長州など倒幕派の人々が行っており、龍馬が倒幕の邪魔だと考えた人はいない。

また、龍馬は妻のお龍を長州藩の庇護の下で下関に住ませており、長州の意向に反した行動をとることはまったく不可能な立場でもあった。龍馬が生きていたら戊辰戦争はなかったとかいう人もいるが、会津と龍馬は不倶戴天の敵であり、より過激な処分策を主張したであろう。

一方、西南戦争については、西郷と新政府の亀裂を修復することには貢献できたかもしれない。

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